n回目の卒業式(シンエヴァ感想)

〈n=0_まえがき〉

2021年3月8日。
映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』公開日。

その日私は、エヴァの聖地こと新宿バルト9、朝7時の上映回でそれをみました。

あのチケット争奪戦を経て勝ち取った、最速回です。


上映が終わる頃に自分の中にあった、一番大きな感情は

〝エヴァ〟が終わってしまう寂しさと恐怖。

感動と共に、そのぐちゃぐちゃな感情でめちゃくちゃに泣いていました。

驚くことに、YouTubeやTwitterでは

「卒業できました」
「さようなら」
「今までありがとうございました、では」

そんなコメントを残し、潔く、完結を迎えたエヴァを受け入れ、お別れできている方を多く見かけました。

シンジもみんなも大人になったのに、自分はこうやってまだエヴァにしがみつこうとしている。なんて惨めなんだろう、なんて子供なんだろう。みんな強いな…。

お恥ずかしい話、私はそんな事を考えていました。


公開日前日に、遺言なんていうとんだ恥ずかしい黒歴史的文書を残してしまった私ですが、そこにある通り、エヴァは私の人生の大半を構成している存在です。

その、自分にとって大きすぎる存在が無事に完結を迎え、それ故の喪失感が、心にぽっかりと空いた大きな穴を感じさせるのでした。


それでも、頭では理解していたのです。

自分も、一歩前に進まなければならない。成長しなければならない。シンジがそうであったように。


そんな事を考えながらも、劇中の色んな事を思い出しては毎日のように泣いていた、上映から数日後。
ある出来事が起きました。

会社から、一本の電話。
とある重役を任せたい、と。
今までの私はやった事のない、ある意味では避けていたような、そんな内容の依頼でした。

これまでの私なら、断っていたかもしれません。そんな責任重大な事、私なんかが、と。

ただ…。

今、この瞬間こそ、一歩を踏み出すチャンスだと、そう言われているような気がしてなりませんでした。

だからこそ、私はその場で責任を持って「やらせてください」としっかりお返事する事ができました。

私にとって〝エヴァンゲリオン〟は(中略)現実世界と地続きの〝リアル〟

そんな言葉を残しましたが、まさかこのような事が起きるだなんて、奇跡のように感じています。この事は一生、忘れないでしょう。

学生から社会人になるこのタイミングで、この作品を観る事ができた事を、大変嬉しく思います。

シンジ君。私も一歩、前進できたかな?


〈n=1_はじめに〉

5月16日。その日私は第16回目のシンエヴァを、友人と一緒に観に行きました。

この数が多いのか、少ないのかわかりませんが、今の私にできることは、この数年間、エヴァファンでいさせてくれた公式への恩返し。

この日シンジの

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」

というセリフが急にスッと心に入ってきたというか、妙にすんなり受け入れられたような気がしました。


公開日から今まで、新社会人ということもあり何かと(時間的にも精神的にも)忙しく、しっかりとした形で感想等をまとめる事ができずにいました。

しかし、こうやって気持ちにも(やっと)整理がつきましたので、今更ですがこれまでにツイートした事や、その他に思った事、気付いた事など、ここにまとめておきたいと思います。

[追記_7月11日]
と、思ったのですが、全部書き連ねていたら収集がつかなくなってしまったので、以下、大幅に加筆・削除・修正しました。

〈n=2_アスカ〉

今作、私がまず何よりも、誰よりも言及したいのはやはりアスカです。

ケンスケの家、アスカの裸に慣れたケンスケ、「ケンケン」と呼ぶアスカ。

正直、最初この関係を見た私は、フォロワーの言葉を借りるならば脳細胞を破壊された、という状態に陥りました。
ゲーム『鋼鉄のガールフレンド2nd』で、ケンスケが「アスカを俺にくれ!」なんて言ったシーンを思い出しながら。

何より成長して大人になったケンスケは、他者に介入しすぎず一定の距離を保ち、一人で家を建て「何でも屋」として修理から何でもこなす自活力を併せ持つ…そう、まるで加持リョウジのような男になっていたのです。

シンジを連れ込んだ夜、啜り泣くシンジの後ろで寝る構図は、まさにTV版の第拾八話「命の選択を」のワンシーンを意識したものでした。
何よりその無精髭が、制作側の意図する人物像・役割の象徴でしょう。そして〝惣流〟はそんな大人の男性に、憧れていたのです…。

それでも2人の関係は〝そういう関係〟とは言い切れない微妙さで、例えばケンスケはアスカを未だに式波と呼んでいるなど、違和感は残っていました。

公開初日中に、フォロワーさんと色々お話していてよくわかりました。
あの2人は友達、いや親子に近い関係だと。上記の通り色々と思い出してしまって半ばパニックになった私でしたが、冷静に考えれば確かにそう考える事ができます。恥ずかしながら、それでも初日にその解釈に辿り着けたのは幸運でした。ありがとう。

アスカ役の宮村優子さんも、ケンスケがアスカに手を出すわけなかろう!とインタビューで答えてくださっています。
実際、ケンスケは劇中で一度もアスカに触れてすらいません(※後述)。

アスカの首に、まさかのDSSチョーカーが装着されていたのも衝撃でした。
まるで首輪のようなそれは罪の象徴、同時に償いの意思の象徴でもあります。そんなものを付けて、アスカはこれまでずっと生きてきたのかと思うと、苦しいです。

途中からアスカは首に赤いスカーフを巻いていました。DSSチョーカーに反応して嘔吐してしまったシンジへの配慮でしょうか?そうだとしたら、優しいですよね。
「戦時特務少佐」?としての任務とはいえ、遠くからシンジを見守り、不器用ながらも叱責する姿は、相変わらずの不器用ながら優しい、そういう愛おしさを感じます。

そんなアスカですが、今作では最終決戦に向かうその時までずっと、ワンダースワンを持っていました。他者と話す時に持つそれは、まるでシンジにとってのS-DATのようで、とても象徴的な描かれ方をしていました。
マリと話す時すらもその画面から目を離さないアスカはまるで子供のようで、ワンダースワンはアスカにとって、他者と話すための安定器のような役割を持つアイテムなのかもしれません。

それでもシンジが相手の時はそれを置き、あるいは電源を落としているカットがわざわざ描かれていたりします。
ワンダースワンがある種の〝心の壁〟だとするならば、それを取り払って、正面から本心で向き合う、そういう心の表れなのかもしれません。

ケンスケと話す時も、ワンダースワンを持っていないシーンがありました。
今作で唯一、アスカが笑ったシーンでもあります。

『:破』の

「そっか、私、笑えるんだ」

以来に見る微笑み。
笑ったシーンがここだけというのも少し寂しいように思えてなりません。

アヤナミレイ(仮称)、通称「別レイ」との会話ではさらに衝撃的な事実が発覚しました。

「私達エヴァパイロットは、エヴァ同様、人の枠を超えないよう設計時に抑制されてる。」


…このセリフを聞いた時も、一瞬頭がフリーズしたのを覚えています。
アヤナミシリーズはシンジに好意を持つようネルフに仕組まれている。ここでシキナミシリーズ、については言及されていませんが、アスカもレイ同様の存在であった事が発覚したのです。

確かにそういった考察はこれまでに見かけた事はありましたし、伏線を回収したという意味でもこれは必然の展開でしょう。ただ、私は認めたくなくて、ずっとこの説から目を背けていたのです。

メタ的な読みをすると、この「設計されている」という表現は、物語の登場人物は制作者によって「キャラクター設定」がなされている、という事を意図したものなのかもしれません。

余談ですがこの時ベッドの下に置いてある透明のコンテナは、『:破』にも登場していた物です。側面に旧ネルフのロゴマークがあって、パペットが入っていたやつですね。

マリとアスカの部屋の上で、マリに髪を切らせているアスカのシーンがありました。
このシーン、個人的に思い入れが強いというか、印象が強いです。

ちなみに、この髪を切るシーンは実際に撮影にしたものを参考にしているのだとか。
〝リアル〟を追求する制作陣のこの姿勢、本当に凄い事ですよね。

リリンではない存在になってしまったアスカは、それでも髪だけは伸びる事を「鬱陶しい」と言います。これに対してマリが、

「(前略)姫が紛れもなく人間である、証じゃないの」

と応えた時、アスカの左目の眼帯が青く光るのです。

『:Q』でも、

「あれじゃバカじゃなく、ガキね」

とシンジに向かって吐き捨てた時に同じ現象が起きていました。
恐らくある種の感情が動く時、反応するのではないかなぁ…と想像しているのですが、だとしたらこの時のアスカって、〝人間である証〟と言われた事に、無言ながら、涙こそ流さずとも、何か胸を締め付けられる様な想いだったのではないかと思います。

というのも、ケンスケの家で寝るシーンでは

「いつになったら眠れるんだろ」

と呟くわけで、〝ヒトでなくなった〟と自覚はしていても、〝ヒトに戻りたい〟という想いは強かったんだと思うのです。

その後のシーンでワンダースワンの電源を切り、白装束もとい新型プラグスーツに身を包んだアスカはエヴァに向かう途中、引き返してシンジの元へ向かいます。

「最後だから聞いておく。あの時、私がなんでアンタを殴りたかったか、わかった?」

ここ、シンジが口を開くまでの時間が異様に長く感じたのを覚えています。

内心、「え、なんて答えればいいのかわからない」と正直考えていた所ですが、この後のシンジの答えはまさに完答。でした。
いやほんと、凄いですよシンジ君、いやシンジさん。

そして続け様に

「最後だから言っておく。いつか食べたアンタの弁当、美味しかった。あの頃はシンジの事、好きだったんだと思う」

唐突の告白。

この時あえて過去形で、かつ曖昧な表現だったのは、アスカ自身が最終決戦で死ぬ事すら覚悟していたからこそ、シンジが後で悔やまぬ様配慮した、アスカなりの優しさだったのかもしれません。

シンジの部屋を去る時も、マリに

「スッキリした」

と言っていますし、決戦前の最後に、アスカの中の蟠りに決着がついたシーンなのだと思います。

アスカは〝リリンでは無い〟存在になった事で睡眠を取る必要が無くなり、さらに水以外を受け付けない身体になりました。

没案ではこんなシーンも。
より完全なる生命体に近い、単体で完成された生物、つまり使徒に近い存在となってしまった、そのアスカが、

「いつか食べたアンタの弁当、美味しかった」

って言うの、やばくないですか、泣きますよまた。

だって、味覚も無くなったような身体なのに、かつて好きだったシンジの弁当の味は覚えているんですよ!?

去り際、アスカがシンジに言うセリフ。

「でも…私が先に大人になっちゃった。じゃ。」

ここ、「でも…」の後にアスカの声が若干震えている様に聞こえるのは私だけでしょうか?

そのアスカが、最終決戦において使徒の力を解放し、ヒトである事を捨て、自分のためではなく他者と世界のために戦うシーンがありました。
裏コード999です。

先述の通りアスカは、「ヒトである事」を心の底では捨て切っていません。
『:破』まで、人に認められるために、自分のためにエヴァに乗っていたその彼女が、自分以外のために、その「ヒトである事」すら捨てて覚悟を決め、

「新2のA.T.フィールドを、私のA.T.フィールドで中和する!」

と言うセリフ。もう10回以上この作品を映画館で観ましたが、毎回泣いています。

「ヒトである事」を諦めなかったアスカが、他人(ヒト)のためにそれを捨てる。このシーンが、私にとっての『シン・エヴァンゲリオン』という作品で一番大きな意味を持つシーンです。

シンエヴァで、アスカが使徒の力を行使だろうという予想は私が以前から何度も何度も言ってきていた事でした。

予想が現実となってあのシーンを観た時、やはり予習も兼ねて小説版を読んでおいて正解だったなと思いました。大変満足です。

〈n=4_予習の成果は〉

ここで、エヴァANIMAと今作との共通点を整理しておきましょう。あまり細かく列挙すると大変なので、わかりやすいものだけ。

上記で取り上げた
  • アスカの使徒解放

この他に、
  •  自分の意思で光の巨人、いや光の巨獣と化した事
「エンジェルブラッド、全量注入!」と言っていたシーンです。
エヴァANIMAでも、自らの意思でパイロットが光の巨人と化すシーンがあります。

  • マリが他のエヴァを喰らい融合する、オーバーラッピング
エヴァANIMAのマリの行動目的がまさに、「喰らい自分のモノとする」事でした。
ちなみに「オーバーラッピング」と「プラス・フォー・イン・ワン」の元ネタは、「ウルトラオーバーラッピング」と「ウルトラ・シックス・イン・ワン」による6重合体で誕生したスーパーウルトラマンのようです。

  • エヴァを喰らう虎のようなA.T.フィールド獣
8号機がかざした手から生まれた大きな獣。こちらに関しては山下さんからも逆輸出だと明言されています。

  • 青紫色のA.T.フィールド
通常の紅い発色とは異なるA.T.フィールドが展開されていました。新2号機や第13号機がそうです。
エヴァANIMAの連載版では、「敵」機体の展開するフィールドはまさに〝すみれ色〟だとされていました。

  • ゲンドウがネブカドネザルの鍵を使用した事について、「この世の理を超えた情報を自分に書き込んだ」と言っていた事
エヴァANIMAでは加持があのバイザーを付けた時の文言と似ていますが、記憶の「書き加え」と「上書き」という違いがあります。
これにより、シンジが選ばなかった別の世界を認識できたのではないかと考えています。

  • エヴァ44Bの位相差による大電力発電
  • エヴァ4444Cの加速器(ラミエルキャリヤーのリング)
エヴァANIMAに限った話ではありませんが、フィールドの位相差によるエネルギーは、F型初号機のインパクトボルトや、アレゴリックシステムに組み込まれています。
神輿キャノンこと4444Cの陽電子砲の両サイドにある巨大な陽電子加速システムは、まさにエヴァANIMAのラミエルキャリヤーが持つリングに酷似しています。

  • ユーロNERVの独自戦力
エヴァANIMAや、彼方への待ち人でも、ユーロNERVはNERV本部に敵対するような形で、独自に研究、軍事力を高めていました。
アディショナルインパクト中のアスカの回想シーンでは、旧作の弐号機と同じデザインのエヴァが、ヒト型の敵機と戦闘シミュレーションしているのが描かれていましたが、ユーロNERVは一体、〝何〟と戦うつもりだったんでしょうかね。
余談ですが、この回想中に登場する幼少期のアスカが背負うリュックに、惣流アスカが持っていたあの「サルのぬいぐるみ」が付いていた事に気付きましたでしょうか?

最後に、
  • 新たな槍「ガイウス」の創造
エヴァANIMAでは「ルクレティウスの槍」というものが登場します。


〝虹〟は新劇場版における一つのテーマだ

というお話を以前どこかでした事がありますが、ガイウスの槍を創生する際には虹色に光る演出がありました。
人類の意思と知恵を象徴する槍が、新劇場版のテーマ色に輝いたのですね…。


〈n=5_制作陣の愛〉

槍をシンジの元へ届けたのはミサトでしたが、決戦前のシンジとのやり取りは非常に印象的でした。

銃からシンジを庇ったミサトからサングラスが取れた時、愛情と優しさに溢れた、母の顔が現れ、それはまさに私達の知っているあのミサトで。

『:Q』では散々な言われ様でしたが、本当はずっとシンジの事を想っていた事が今作で明らかになりました。14年振りに

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

と言い合える2人の関係性に戻ってくれた事が、ファンとして本当に嬉しいです。

旧劇では

「結局、シンジくんの母親にはなれなかったわね…」

と言っていたミサトが、やっと、本当の母になって、それは加持リョウジ君の、という意味でもありますが同時にシンジにとっても本当の母親的な存在になれたんじゃないかと思うのです。

旧劇を彷彿とさせながら、旧劇とは違う展開となったシーンは他にもありました。

例えば

「あなたもこの村を守っているの?」

と聞いた別レイに対して、

「守ってなんかいない。全部僕が壊したんだ。(中略)なんで皆んな、こんなに優しいんだ!」

と、応えたシンジ。
これって、旧劇場版で「僕に優しくしてよ!」と叫んでいたシンジとの対比なんですよね。

リツコが迷いなくゲンドウを撃てたのも、旧劇では

「カスパーが裏切った!?」

の時のリツコとの対比。

これらは旧作での各キャラへの救済のようにも感じられます。


そのゲンドウですが、今作ではこれまでの作品では考えられないほど、心の内を吐露していました。

彼の過去、ユイとの出会い、エヴァプロジェクトの始動…。
イカれ具合は相変わらずですが、ただユイに会いたかった、ユイの胸で泣きたかっただけではなくて、ユイと一緒にいる事で変わりたかったという想いが根底に実はあったという事が明かされたのがポイントです。泣ける。

そのためにユイのクローンを量産した事についてはやっぱり引きますけどね。アスカを使い捨てる行為も許さん…。

今作では多くの登場人物の心の内が明らかにされ、これまで脇役だったトウジらは物語に深く関わる重要な役どころとなり、どの人物に対しても救いのある、語れる事が多い、そういう愛のある作品に仕上がっていました。

しかしそんな中で、結局最後までよくわからなかった人物がいます。
それがマリです。結局彼女の行動目的、軸となる部分はなんだったのでしょう?
これについては今後別の記事で。


制作陣の〝愛〟は、他のシーンにも顕著に現れています。

例えば、全てを終えて波打ち際に座るシンジ。
やがてその場所は色を失い、動きを失い、アニメの制作過程を逆戻りするようなシーン。
まるでそのまま、白紙に戻って、シンジの存在すら消えてしまいそうな。

TV放映版の最終話でも似た表現はありましたが、当時は時間と予算の関係もあり、選択肢が狭められた中で取ったその手段を、否定するのではなく手法として肯定し、真正面から向き合ったのです。
特に、マリが迎えに来てからのエヴァと波の動きのシーンでは、改めてアニメーションの細やかさ、その技術の素晴らしさと面白さを実感しました。


これまでの「エヴァ」という作品を彷彿とさせるセリフやカットが至る所に見られた今作ですが、実はそれだけでなく、第3村での「田植え」は、作品を制作する事を農作物に例えた『大きなカブ』の物語を意識しての演出だったり、封印柱によってコア化やハイカイする首無しエヴァから守られている構図自体が、『幻のエヴァ旧劇場版のプロット』にそっくりだとわかった時、こんな所も回収したのか、と衝撃的でした。

この第3村では、ヒカリが別レイに教えた〝おまじない〟が大きな意味を持ちましたね…。

手を繋ぐ事。仲良くなるためのおまじない。

作中、最後まで人と人とが手を繋ぐシーンは多く、印象的です。
ヒカリからレイへ、レイからシンジへ、シンジからカヲルへ、おまじないのバトンが渡されていく様にも受け取れます。

他にも、予告に登場したエヴァ8+2号機がこっそり登場した事には気付きましたでしょうか?
実はこの予告に登場するMark.06もどき達が持っている、「パレットガン」+「プラグナイフ」の銃剣も、マリがアスカの援護をする際に一瞬映っていました。


〈n=6_残る謎〉

今作は、ヴンダーの強襲劇やその本来の運用目的人類補完計画を始め、様々な解説がなされ、全体的に説明の多い、非常に丁寧な作りとなっていました。

エヴァの結末について、

謎は残して考察の余地がほしい

謎は残さず全て解説してほしい

といった、二分するファンの対照的な要望に対して、〝ちょうど良く〟間をとったような作品となったのではないでしょうか。

実際、あまりに沢山の事が語られ、綺麗に収束した今作ですが、伏線の全てが回収された、と言い切れるでしょうか?残念ながらそれは勘違いでしょう。

例えば私が今一番気になっているのは、『:序』冒頭で映る、白線の巨人跡の正体。

思うに、あれはセカンドインパクトで使い捨てられるはずだったアダムスの一体で、後に第13号機の素体として流用されたのではないか、と。
それ故にマリからは「(セカンドインパクトの)アダムスの〝生き残り〟」と呼ばれていたのではないかと考えています。真相やいかに。

いつの間にセカンドインパクトの爆心地に残る十字が一本増え、ヤマト作戦でヴンダーのスクリーンに映ったそれがウルトラマンエースのサインだった点も気になる所ですね。

そもそも、ヴンダーとは一体何だったのでしょうか。
冬月先生の

「人工的なリリスの再現」

というセリフがありました通り、戦艦NHGシリーズの計12枚の光の翼が人工的なリリスなのだとすれば、その正体は巨大なエヴァのような存在なのかもしれません。

つまり、「パイロット」が「エヴァ」に乗る事で完成するように、「エヴァ」が「NHG戦艦」に乗る事で完成するのではないでしょうか。なんていう妄想をしてみたり。

そういえば、今作で西暦らしきものが初めてしっかりと画面に映ったのもポイントです。

これまで、新劇場版の世界では西暦何年なのかという点は不明とされていましたが、第3村の転車台の塗装年月(?)が「12001年2月」、ヴーセの竣工年月(?)が「21 Juni 11805」と、明らかに西暦らしき表記が登場しており、もしこれが実際に新劇場版での西暦を指すのであれば色々と考えられる事が多いでしょう。

NERVがそれだけ太古の昔から存在していたとなると、『:Q』で存在が明らかとなった人工進化研究所の存在にも疑問が出てきます。

今作で明らかになった点として、人類補完計画の提唱者が葛城博士であった事など、旧作との設定の違いはやはり多く、考察の余地はまだまだありそうです。


〈n=7_エヴァンゲリオン、その結末〉

先も申し上げた通り、今作では過去作を彷彿とさせるシーンが多く見られました。

しかし、マイナス宇宙に入ってからはさらに印象的なシーンがありました。
赤い海の砂浜と、綾波の姿をした巨大なエヴァイマジナリーなどがそれです。

いずれも旧劇場版を連想するシーンで、特に砂浜でシンジとアスカが向き合うシーンでは、多くの方が今作と旧作の直接的な〝繋がり〟があると思ったのではないでしょうか。

しかし、私は思うのです。
ゲンドウがゴルゴダオブジェクト内で

「お前の記憶の世界だ」

「お前にはそう見えるのか」

と言っていた通り、見る人の記憶がその世界の有り様を形作るのであれば、あの場で見たものは「視聴者=エヴァファンが持つ記憶」、つまり旧劇場版という「記憶」がそう見させているのではないか、と。

旧作と今作が直接的に繋がっている事を示唆しているのではなく、ゴルゴダオブジェクトを通じて〝高次的に〟繋がっている(パラレルワールド、とは少し意味合いが違います)、という事なのではないかと考えています。

アディショナルインパクト中のアスカの回想では、

アスカは綾波レイ同様、クローンである

という事を視覚的にわかるよう、まざまざと見せつけられるようなシーンがありました。

TV版放映当時、アヤナミストが第弐拾参話でリツコに見せつけられた時に受けたであろう衝撃を、今になってアスキストの自分が体験する事になろうとは。

それでもやはり、アスカはアスカなのです。
どうしようもなく愛おしい、我々の知る「式波・アスカ・ラングレー」はただ一人、『:破』から見てきた唯一無二の彼女だけなのは間違いありません。


そのアスカの頭を撫で、見送ったケンスケが実はシンジである、という考察を見た時はまさに驚愕と感動でした。

東宝スタジオでシンジとレイが話すシーンに映る、「エヴァの着ぐるみ」や「AAAヴンダー」、「エヴァのコックピット」などが特撮道具のように並べられているシーンに何故か不自然に映り込む、「パペットを着たケンスケ」。
この状況から、「パペットを着たケンスケ」それ自体も他と同様の「道具(着ぐるみ)」であり、第3村に生きるアスカのために、シンジがケンスケに扮して見送った、という概要の考察です。


旧作ではアスカからシンジへの一方的な感情だったのが、今作では互いに「好きだった」なんてわざわざ過去形で伝えて、そんな事を言いながらまだ互いに想い合っているだろうに、

「私は1人。これまでもこれからも、ずーっと1人。それが当たり前なのよ、アスカ。」

と、未だ自分の居場所に気付く事ができないアスカに優しく新しい居場所を諭し、別れを告げる…。
シンジさん、大人過ぎて私にはまだ正直ついていけません……。


シンジが「ネオンジェネシス」と言って創造した、宇部新川駅から始まるあの結末について、皆様はどのようにお考えでしょうか?第3村はどうなったと思いますか?
少し長くなるので、これも近いうちに別の記事で。


〈n=k_最後に〉

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

この作品は全てが緻密に計算され尽くした、言葉通り「アニメーションの域を超えた」、最高の集大成だったと思います。

作品ひとつに、こんなにもたくさんの想いと、様々な挑戦と仕掛けを詰め込めるなんて。

人と人とを繋ぐ、人間ドラマでした。


今ではサントラの曲を聴きながら脳内でシンエヴァを再生できるようになってしまった私は、シーンを思い出しては泣いています。

素晴らしい作品を、感動を、ありがとう。

人生でこれだけの作品に出会えることはきっとそうそうない事でしょう。

これからも私は「エヴァンゲリオン」という作品を胸に生きていきます。

全てのエヴァンゲリオンに、
全ての関係者様に、
全てのファンに、

おめでとう。



〈n=k+1_あとがき〉

結局これだけの文章量になっちゃいましたが、やはりここだけでは語りきれない部分も相当あります。ほんとに。

映画公開前の私といえば、ただエヴァが終わってしまうのが怖くて、自分にエヴァ以外にどんな趣味があったのか、その趣味と向き合う時間になっていました。逃げ道みたいなものを探していたのでしょうね。
でも結局、私にとってはエヴァが一番なんです。わかっていた事ですけどね。

一切の考察をしなくなったのは、単に『:Q』公開時に映画館へ足を運んだ、あの頃の〝ただのエヴァファン〟として完結を迎えたかったから。その準備のため、でした。
アルマロスとしてではなく、名前なんてない、一ファンとして、真っ新な気持ちでその日を迎えるために。

映画公開初日の最初の上映後は、「終劇」の2文字の後の時間が異様に長くて、次回予告が流れないかと期待してしまいましたが、あれも制作陣の仕掛け、なのでしょう。

あまりの感動と、大きすぎる感情で、昼ご飯が喉を通らずそのまま2回目の上映に向かった私ですが、何度も観て、何年もかけて、少しずつ、噛み砕いて、飲み込んで、消化していきたいと思います。

今後は全記録全集を始め、公式から多くの情報が解禁されていく事でしょう。私の、私達の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はきっと、まだ終わりません。

結局、友人達と「卒業式だー」なんて言いながら映画館へ向かったというのに、私はまだまだ、この作品を卒業できそうにありませんね。

2021年7月 アルマロス

アルマロスの部屋

2015年~2017年にかけて、Q&Aアプリ〝LINE Q〟で活動していたEVA Mark.06が管理するウェブサイト。 2017年のLINE Qサービス終了に伴い、LINE Qに投稿していた内容をNAVERまとめに再投稿、新規投稿もしています。

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